CROSSWHEN

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普通自動車免許

随筆:車の免許について

が初めて車の免許を取得しようと思ったのは、高校生の頃だった。

私の普段の交通手段は、徒歩、バス、鉄道、自転車のいずれかにほぼ限られている。これは幼い頃から今に至るまで変わらず、普通乗用車、いわゆるクルマに乗る機会は滅多にない。車に興味がないこともあり、基礎知識自体がゼロに等しい。家から5分ほど歩けばバスの停留所が2箇所あった。駅に行くのにも自転車で20分ほどでたどり着いた。なので大雨が降った日の外出や、古本屋に本を大量に売りに行く時に、もしも車があったら便利だろうなと思うことはあったが、逆にいえばそれ以外で車の必要性を感じたことはなかった。

小学校に入学する頃に任天堂がファミコン(ファミリーコンピュータ)を発売した。同じ頃ドラゴンボールのテレビアニメが放送開始になった。学校に行けばファコミンやドラゴンボールの話題が出ることはあったが、同級生の誰かさんの家にすごい車があるなどの話題は出たことがない。あったかもしれないが、全く記憶にない。なので車のない生活は事実だったが、そのことに引け目を感じたことは一度もなかった。

高校生の頃、車の免許を取得しようと思った。当時は今みたいにインターネットも携帯電話も一般にはまだ普及していなかった。年齢的に、周りのクラスメイトにも免許を持っている人は当然いないので、情報を知りたければ書店で参考書を買うぐらいしか術がなかった。自動車免許までの段取りを漫画で紹介した本を買い、そこで初めてMT(マニュアル)とAT(オートマ)の2種類を知った。当時は性能の仕組みの違いよりも、操作が難しいか楽かどうか、必須講習数が多いか少ないかどうか、のイメージで覚えた。

車を欲しいとも乗りたいとも思わなかった。今でも全く思っていないので、過去形ではなく現在形で断言しても構わない。男性なら、ある程度の年齢になれば車に興味を持つのが当たり前だとすると、私はDNAの特定部分が生まれてからずっと眠ったままで、一度も目覚めたことがないのだろう。

仮にフォーブスに掲載されるような世界有数の金持ちになったとしても、車は最低限しか所有しないか、あるいは全く所有しないと思う。そしてそれを嗅ぎ付けたマスコミに「稀代のケチ」「東洋の恥」「富裕層がこんなことだから、世の中の経済が回らないでは?」と叩かれるのだろう、と他人に打ち明けると、必要のない未来像のためか、必ず笑われる。

そんな私が高校生の時に車の免許を取得しようと思った理由はただひとつ。信頼性の高い身分証明証が欲しかったからだ。

私の学生の頃は個人情報を扱う概念も今ほど厳格ではなく、住基ネットやマイナンバーなどもなかった。憧れともブランドともステータスとも異なるが、免許というものを、社会で生きていく上での大人の証のように感じた。家族に免許証を持つ人はいたので、実物を見て触れたことがある私は、「車なんて興味ないけど免許だけは持ちたい」と漠然と思い始め、法的に免許取得が可能な年齢となる高校生の頃には、その思いは確信に近づいていった。

私が免許を取得したいと言った時、母は「お前を産まなければ良かったと心から思った」という。車で事故を起こした場合を心配してのことだ。面と向かって何度言われたか分からない。私が「車なんて興味ない。免許を持ちたいだけ」と何度言っても信用しなかったが、実際に取得してからも私が「車を買いたい」「車を運転したい」などと一切語らない様子を見て、ようやく納得したようだ。

教習所時代

地元の自動車学校に通い始めた。取得にかかるコストも時間も最小限にしたいため、迷わずAT車コースを選んだ。

教習所に入所したときにパンフレットを渡された。表紙をめくった次の見開きページでは、アメリカかどこかの広大な土地を車が悠々と走行している写真とともに「車があると生活が広がる。車を運転するって、すごいことだったんだね」的なキャッチコピーで、画像も文章も、いかにも「車が運転できるとバラ色の生活が待ってます」と謳っていた。一方、初回の講習では「あがないの日々」を音読させられた。パンフレットの壮大なイメージ、そして贖いの日々。どちらも自動車運転者の天国と地獄には違いないが、今思い出してもあまりに極端だ。贖いの日々を読まされたときは、「生活が広がってもやっぱり車なんか乗るもんじゃない」「車は使い方を間違えると人殺しの道具になる。自分だけでなく他人の人生までメチャクチャにしてしまう」「バラ色の生活というのは、血で未来も何もかも赤く染めてしまう生活かもしれない」と思ったものだ。

実技教習の初回。初めてシートに座った時、シートベルトを締めたとき、差し込んだキーをひねってエンジンを入れたとき、サイドブレーキを下ろしたとき、アクセルを踏んだとき、クリープ走行を防ぐためブレーキを踏みっぱなしにし始めたとき。今でも覚えている。

緊張はしなかったが、実感も湧かなかった。

何度目かの教習で男性の教官に「本当に初めて? 普通もっと嬉しそうに操作するんだけどね」と不思議そうに言われた。私の場合、別に車の操作が嬉しい理由がないので「車なんか好きじゃないから別に嬉しくなんかありません」と正直に答えた。するとものすごく驚いた顔で「じゃあなんで免許取ろうと思ったの?」と聞かれたので「身分証明になるものが欲しかったからです」とこれまた正直に答えた。

「車なんて人殺しの道具になってしまうし、高い買い物だし、維持費もかかるし、場所もとるし、排気ガスをまき散らすし、洗車も大変だし、良いことなんて何もないじゃないですか」と私が言うと、教官は笑って「若いなあ。でもその内に家庭持ったら変わるかもしれないよ。ちゃんと安全に運転できてるからもったいないね」と言った。

教習所で車の運転を習っている最中、しかも初回の実技講習で「車なんて人殺しの道具」と言い切った私は、若さとはいえ、やはり変わっていたと思う。

教習の後半で、何人かで同じ車に乗り、一般道を走り、安全な走り方について話し合うものがあった。

女性教習生が運転していた。助手席にいた男性教官と運転席の彼女とのやりとりを、今も覚えている。

「一人暮らしにするにあたって、車を新しく買おうと思うんです。今駐車場も探しています」

「へえ。この辺で探すとなると、駐車場代は軽く5万円ぐらいするんじゃないんですか?」

「そうなんです。でもその金額だと、新しくアパートを借りるのと、大して変わらないじゃないですか。別に車を使うといっても、休みの日にどこか出かけたり、買い物に出かけたりするぐらいしか使わないし。そこまでして車が欲しいわけでもないし、だからどうしようかなって」

「なるほどねー」

私は黙って後部座席でやり取りを聞いていただけだったが、若い女性が一人暮らしを始める前提で、車が決して身近でなく生活必需品でもなく、「そこまでして車が欲しいわけでもない」とあっさり言わせる、そういう地域だったと改めて分かる。地方だと車は一家に一台ではなく家族一人に一台で、車通勤は珍しくなく、駐車場も基本的に格安で借りられるのを、社会人になってから私は知った。

車に興味がない割に、実技も筆記も順調に進んだ私は、やがて車の免許を取得した。

取得以後

初回は府中の試験場で交付を受けたが、売店のおばちゃんも含めて、職員の態度が異様に悪かったのを今でもハッキリ覚えている。

免許の更新場所は、府中、地元の警察署、東京都庁の順に経験した。それぞれ場所が違うのは、なるべく近場か交通の便の良い場所で済ませたかったからだ。ペーパードライバーの私は当然無事故無違反なので、更新のたびにランクアップして、ビギナーの「若草」から最短で「ゴールド」になった。ランクが上位になるにつれ、更新手続きで利用できる場所の選択肢は増えていったが、府中はやはり遠い。地元の警察署も悪くはないが、都庁の交通の便の良さが一番魅力的だ。

初回の交付のときは府中における職員の態度が異様に悪かったが、更新の時は、府中も、次の警察署も、それ以降の都庁でも職員は猫なで声で、言葉遣いも態度も丁寧に接してくれたので、奇妙なものだと思う。初めの挨拶から最後の見送りまで、全てが別格の待遇という感じだった。優良ドライバーが相手の場合は非礼なきようにという通達があるのかとさえ思う。

初回の交付以外で、手続きの必要があって府中を利用したことがある。はじめての更新の時か、紛失したために免許の再交付を受ける時か、どちらかだったと思う。

新しい免許の受け取りまで半端に時間が余ったので、見学がてら、一般向け講習者の建物に入った。さすがに教室の中には入らなかったが、廊下をゆっくりと見て回った。無残な交通事故現場の大きなカラー写真が壁にいくつも飾られていて、私は教習所で読んだ「贖いの日々」を思い出した。自分で運転することがない私は、加害者ではなく、被害者の心境でそれらを見た。大手ネット掲示板サイトの2ちゃんねるを知ったばかりの時期だったので「いわゆるグロ画像? こういう写真とか、たくさん公開しているのかな」と思った。見ていて胸が痛くなった。立ち尽くして写真を見ている私を、通りすがった教官らしい年配の男性が見つけて「そこのお前っ、さっさと中に入れ!」と指差して怒鳴ってきた。驚いた私が「違います、ただの見学です」と慌てて首を横に振ると、相手はチッと舌打ちして教室に入っていった。あの時の男性はどうしてあんなに乱暴な物言いだったのだろうと、今も思う。怒鳴られた経験を思い出すたび、不愉快というより、戸惑いの気持ちがよぎる。

試験場については、民営化は必要ないとしても、競争原理があったほうがいいのかなと私は思う。

たとえば道路の向かいを挟んで、同じ収容規模で同じ内容ができる試験場を設置して、匿名でアンケートを実施したらどうだろう。男性職員だけでなく、売店のおばちゃんをも含めて、挨拶ができているか、タメ口を叩いていないか、高圧的でないかなどを評価する。評価は点数化し、試験場の玄関に掲示する。あるいは現場でとはいかなくとも、国土交通省や警視庁の公式サイトなどに一般公開する。「悪い評価は出されたくない」「道路の向かいの相手には勝ちたい」と思い、少しは改善されるかもしれない。


「車なんて興味ない」

「じゃあなんで免許を持とうと思ったの?」

「身分証明が欲しかったから」

「身分証明のための免許なら、車じゃなくても原付でもいいじゃない?」

ある時、こんな話の流れになった。相手の疑問はもっともなことだ。

実は私は車に興味がなさすぎて、免許に複数の種類があり、原付でも免許足りうることを知らなかった。そればかりか免許に数年おきの更新が必要であり、更新には費用もかかることを知らなかった。高校生の免許取得を決意した時、これらを知っていたら「更新のたびに費用がかさむのは嫌だから」という理由で取得は目指さなかった可能性もある。取得した今となっては、5年に1度の更新の手間を惜しんで失効になるのも損なので、惰性で更新している。


高校を卒業した後に、紆余曲折を経て専門学校の生徒になった。当時は地元の書店でアルバイトをしていたが、車の話になり、AT限定免許を持っていることを答えたら「男は社会に出ると営業に行かされる。AT限定は解除できるから早い目にしたほうがいいぞ」と店主から言われ、再度教習所通いを始めた。

アルバイト先の書店にはCD販売コーナーがあった。テレビCMタイアップの一覧を集めた分厚い冊子があったが、それを見ては、車広告の種類の多さと、そこから派生するコマーシャルソングの多さに圧倒された。車は裾野の大きい産業とはよく聞くが、異業種にも深く根ざしているから、車について「人殺しの道具」「排気ガスをまき散らす」「環境を汚すもの」と否定するだけでは終わらない。当時、トヨタ自動車のプリウスがテレビCMを放送し始めていたが、そのひとつが「トヨタが変わらないと、地球が変わってしまう」というキャッチコピーだった。誇大広告になっていないところがすごいと思った。

車産業は、部品メーカー、販売店、広告代理店、カー用品のメーカー、カー用品の販売店、ガソリンスタンド、中古車販売店、修理業者など、山ほどの業種が周囲に群がる。さらにいずれの企業も複数の従業員を雇っているので、星の数ほどの企業や従業員による経済の循環があり、銀河のような連なりを形成する。安全軽視のスキャンダルが報じられ企業の存続が危うくなるのが報道されると、孫請け会社や曾孫ひまご請け会社の雇用はどうなるんだという同情の声がよくあがる。一方で、毎日が同じ流れ作業の繰り返しのためかどうも活気が感じられない試験場の職員みたいな同情できない例もある。本当にさまざまだと思う。今後はAI導入やIoT対応やEV化などの時代を迎える。永遠の繁栄のごとくぼろ儲けする企業も、ドラレコ(ドライブレコーダー)のように有望視される分野も、衰退するところも出てくるのだろう。

私が教習所にいた頃は、講義で「これからはカーナビ市場が儲かるといわれています」と雑談を聞いた。一方で、実技教習で「今日は、遠出をするにあたり、地図を見ながら目的に行くという前提で、車を運転しましょう」とやりとりもあった。Windows95は発売されていたが、インターネットは民間にはまだまだ普及せず、スマートフォンもWiFiもGoogleもない時代なので、ネットで何かを検索するという概念は当然なかった。現在の教習所で過ごす未成年や学生には、これらの感覚はわかるまい。一方で私もAT限定が存在せずMT一択だった頃など知らないので、こればかりは時代の流れだろう。

現在、

ここ何年かは、車の免許更新について、優良運転者講習を受講する場所は一貫して都庁に決めている。交通の便がいいのが一番の理由だ。記憶が確かならばゴールドに認定されてからはずっと都庁で済ませている。5年に1度ごとの体験ながら、受講時の講師を除いては職員の愛想が悪いのが毎回印象に残り、「せめて挨拶ぐらいすればいいのに。相手の目を見て話せばいいのに」と思う。ただし、2017年に利用した時は、なぜか挨拶もきちんとしてくれて、みなさんそれなりに愛想が良かった。

日常生活で、たまに車の運転の話になる。免許は持っているが、車は全く興味がなく、教習所の車以外は運転席に座ったことさえないことを素直に告白する。実技試験を一度で通過したことを思い出話で振り返ると、「車に触ったこともないのに、S字やクランクや縦列駐車も一発でできたの? 興味ないだけで、もしかして運転のセンスはあるんじゃないの?」と驚かれる。一発で合格したのは事実だが、落ち着いてやればできるのだと自分を納得させ、さほど苦労した記憶はない。それに教習所は一般の道路より幅が広めだというから、実際の道路でする運転は、教習所の練習ほど甘くはないだろう。ただ確かに、自分の車の運転なんて到底安全じゃないだろうから信用できないと決めつける私は、絶対に過信しない分、逆に安全運転を心がけるだろうとは思う。

教習所で車の勉強をしていた時、最も苦しんだのは道路標識の暗記だった。標識をマークと呼んで教官に笑われながら怒られたこともあった。種類の多さに目を回して、それでも苦労をして覚えた。達成感のかけらもなかったが、むしろこれだけが今も役立っている。標識の意味を知っていると、車の運転とは無関係でも、外を移動する際に、安全確認の手助けになるからだ。

体で覚えたことは忘れないとよくいわれるが、私は成人になってからハンドルに指一本触れていない。21世紀に入ってから全く触れていない。ペタルでいえば、アクセル、ブレーキ、クラッチの位置をなんとか覚えているぐらいだ。こんな人間が、過去に高速道路を運転した。高速道路教習の一環とはいえ、我ながら恐ろしい。空白期間が長過ぎるので、おそらく、AT、MTに関わらず、車の操作はきれいさっぱり忘れている。一方で、教習所で頑張っていた頃、生意気にも、車の運転というのは意外と難しくないんだなと思ったのを覚えている。


運転免許証は、日本国内に限り普通乗用車の運転をする資格を有することを証明する代物である。「身分証明証」では決してない。しかし現実には免許を差し出されれば、顔写真まで掲載されているので、「本当にあなたの免許ですか?」と疑う人間は基本いない。ゆえに事実上の正式な身分証明証として完全に信用されている。

その意味では、免許証に、アルファベット表記によるローマ字読みのふりがなや、血液型の記載があれば、より完璧なのにと思う。これを人にいうと、免許にそんなものを要求するなんて、お前は考え方が間違っていると突っ込まれる。いずれも、免許証を身分証明の道具として捉えているから出てくる考えなのだろうが、車を運転していて突然の事故に巻き込んだ場合や巻き込まれた場合、参考程度にでもそれらの情報があれば、ないよりは、物事が円滑に進むのではと思う。

これからの日本における車事情。

近年、高齢運転者の車の操作ミスが原因と思われる、悲惨な事故がよく報道される。

そのたびに「高齢になると自分が思っている以上に体の衰えが進み、瞬発力も判断能力もなくなる。ブレーキやハンドルを若い頃の感覚で使っていると取り返しのつかない大惨事になる。だから高齢者は免許を返納しなさい」という論調がおこる。統計をみると若者の方が事故の件数は多いとも聞くが、この意見が出るのは、個人的には当然だと思う。一方で、「地方では車がないと生活ができない。地方では車は贅沢じゃなく、生活必需品だ。車は自分の足と同じだ。東京や都会の感覚を持ち込むな」という反論も非常によく聞く。個人的にはこちらも正しいと思う。

鉄道やバスなどの交通インフラが高度に発達した都市部と、隣のスーパーや駅に向かうだけでも車がないと移動が厳しいという地方と。日本が現在抱える、早急に解決すべき社会問題のひとつだろう。総選挙や国会で、こういう話題を取り上げる人が、果たしてひとりぐらいいてもいいだろうにと思う。

ただ、このあたりの話題は、東京の交通事情の感覚しか知らず、車そのものを知らない私は、議論に参加する資格はないという思いが、常にある。語るとしても、事故に遭遇した時の被害者の視点になる。ドライバーの気持ちはどうしても分からない。

もしも、と思う。

なにか理由があって、急に東京から地方に移住して、生活することになったら。車は必需品になるだろう。ただ、……車が身近な生活は、やはり想像がつかない。

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普通自動車免許
FOCUS ON THE DRIVING LICENCE
公開:2020年10月21日
更新:2023年07月12日