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博士の愛した数式

ぼくの記憶は80分しかもたない

博士はかせあいした数式すうしき』は、小川おがわ洋子ようこによる小説である。文芸誌「新潮」2003年7月号に初出し、映画化もされた。

第1回本屋大賞受賞作である。

1992年3月に、未婚の家政婦がひとりの初老の男性の元に派遣される。1975年に遭遇した交通事故で脳に障害を負い、物事を記憶する力を喪失している男性で、現在は80分を経過すると記憶を失う状態になっていた。働けなくなった男性は義理の姉の経済的援助のもと、離れの家で暮らしていたが、男性の特異な事情のため、派遣された家政婦は次々と辞めていた。主人公の家政婦は年齢こそ若かったが仕事をするにあたってはベテランであり、そのためか、所属する組合に選ばれた。

やがて家政婦は男性の世話をするようになる。男性は事故を起こす直前、賞を取ったこともあるほどの数学者であり、研究所の職員だった。数字の世界の言葉を通じて意思の疎通を図りあううち、家政婦は男性を「博士」と呼ぶようになる。話の弾みで、自分に子供があることを打ち明けた家政婦は、博士に促され、鍵っ子にしている自分の子供を博士宅に通わせるようになる。博士は少年を「√(ルート)」と呼び、庇護するようになる。そうして3人の日々が幕を開けていく。

話は家政婦の女性を語り部に進行するが、それぞれの人生背景、風景描写、心理描写などの表現力は卓越したもので、文字の細部に至るまで、無駄がなく、手抜きもない。薄幸な生い立ちの家政婦は、これまた薄幸な生い立ちである息子のルートを産み、未婚の母として育てていく。本書では、なぜ彼女が家政婦の職業を選んだのか、そして博士の家で彼女がどんな風に働いたか、ルートの普段の生活はどうかなど、ひとつひとつを丹念に描写していくのだが、決して説明臭くないので自然に読める。

学者だった博士は、数字の魅力について、幾度も家政婦とルートに対して解説をする。素数、友愛数、無理数。無味乾燥なはずのただの数字の連なりが、博士の手にかかると、無限を秘めた数学世界への掛け橋となる。そして家政婦やルートの内面や生き方さえも変えていく。

途中で博士とルートを結びつける「野球」「江夏」などのキーワードが登場する。そして数字は感情や想い出を伴い、切ない方向へと話を展開させていく。球場での野球観戦、屋外への散歩。夏の雨。そしてルートの誕生日を祝う日が訪れるが、。

物語の性格上、公式や数学の理論がいくつも登場するが、作者の手によって、文学の響きの中に絶妙に溶け合い、違和感がない。

優れた小説の中では文字と数字がひとつになれることの好例だろう。

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博士の愛した数式
THE HOUSEKEEPER AND THE PROFESSOR
公開:2021年08年30日
更新:2022年08月26日