CROSSWHEN

広告

***

暁の死線

……一刻一刻、一分一分が
地獄や天国のすべてを含む──

あかつき死線しせん』は、ウィリアム・アイリッシュによる小説である。株式会社東京創元社とうきょうそうげんしゃから文庫が刊行されている。

米国の大都会ニューヨーク。そこのダンスホール(今でいうディスコやクラブだろうか?)でしがない踊り子として働く女性ブリッキーは、日付が変わり 12時50分の時刻になろうかという頃、ホールにふらり足を踏み入れたある風来坊の青年に出会う。

ダンサーとしての今日の仕事は間もなく終わる。この人と踊るので終わり。そう割り切った彼女は仕方なく彼の相手をし、軽く話をしながらも、心はうわの空で、窓から見えるパラマウント塔の時計台の文字盤に夢中だった。やがて仕事は終わり、彼女は街外れにあるさびれた安アパートメントの自宅に戻るが、ふとしたことからダンスホールで最期に踊った青年を自宅に引き入れることになる。仕方なしにコーヒーでも淹れようとしたところ、部屋に置いていた封筒の宛先から、青年は、ブリッキーが自分と同じ片田舎の出身だと知る。

広い広い大都会で、偶然にも同じ町の出身だった2人。しかも話を進めるうちに互いの実家が隣同士だったことが判明する。故郷の話に花を咲かせ、その延長として夢を求めて都会に来たものの挫折した境遇まで打ち明け始める。何度も帰ろうとして、しかしその度に都会の誘惑に負けて戻ってきてしまった。泣きながらブリッキーは、一緒なら帰ることができるかもしれない、とこぼす。しかしそこまで来て、青年、クィンが残念そうに言う。昨日君に会えていたら、僕は君と一緒に帰っていただろうと。クィンは電気工事店の見習いとして働いていたが、親方が店じまいすることになり職を失ったのだ。路頭に迷う彼は、出来心から、見習いだった頃に出入りしたことのある資産家グレーヴスの家に不法侵入し現金を盗んできたのだ。それを聞いたブリッキーは、そのお金をグレーヴスの家に戻して、2人で故郷に戻ろう、もう一度人生を取り戻そう、と強く説得する。2人は意を決して資産家の家に向かった。しかしそこではなんと、グレーヴスが拳銃で撃たれて死んでいた。

朝が来れば家の人が戻り死体を発見し警察沙汰になる。クィンは殺害の嫌疑をかけられるだろう。ひとり残されたブリッキーは勇気をなくして、故郷行きの6時発のバスにはのれなくなる。クィンとブリッキーに残された道は、たった1つ。グレーヴスを殺害した真犯人を突き止めて、ふたりしてバスに乗ることだった。

時刻は深夜の2時55分。時間がない。

目次の代わりに、話の区切り目にアナログ時計の文字盤を配置するという演出で、この話は異様な緊迫感を以て進んでいく。

題名の「暁」も「死線」も古風な言葉で馴染みがないかもしれないが、話の内容で意味は察してもらえたと思う。暁(あかつき)はすなわち夜明けの意味で、死線(デッドライン)は締め切り、最終期限の意味である。

私が読んだのは創元推理文庫より刊行されている稲葉明雄氏訳によるものである。

個人的な思い入れ。

小学校3、4年生の頃だったと思う。当時自分がどんな子供だったかあんまりよく覚えていないのだが、本をよく読んでいたのを覚えている。

週のうち火・木・土曜日の日に学校の図書室で読書をする時間が設けられていて、私はよく読んだ。その内のひとつが推理小説だった。なんという出版社から出ていたのか覚えてないが、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・リュパンその他、文学に慣れ親しむ全ての少年少女が1度は辿るであろう古典名作が、児童向けに挿し絵をふんだんに盛り込んで活字も大きく工夫されたシリーズがあった。ドアの近くの棚に並んでいて、私はいつからかそれを手に取っていた。背表紙を含む本の装丁が知的で品がある感じがして洒落ていた。活字が大きいためどうしてもページ数を増やさざるをえないのか、どの本も辞書並に分厚かった。その分厚さの本を読破することがどれだけ幼心に達成感をもたらしたかは、子供の時分にしか分からないと思う。

はじめに読んだのはアーサー・コナン・ドイルのホームズものだった。まだらの紐だったか赤毛クラブ(もしくは赤毛同盟)だったか、とにかく短編だったのを覚えている。そのシリーズはどの本にも必ず、小説の粗筋を軽く紹介した漫画がはじめに掲載されていて、おわりに、作者紹介、作品の舞台となった国や時代背景の説明が掲載されていた。小学生の、国外はおろか国内の歴史や社会情勢も知らないほんの子供の私が、ホームズのいた時代の英国のロンドンやリュパンのいた時代のフランスなどを想像できていたとは到底思えない。もちろん今だってそれぞれの国の特色や違いを明確に理解しているかどうかは怪しいが、当時はきっと、西洋は全てひとまとめに考えていて、フランスと英国、あるいは米国の区別さえついていなかった。たぶん、当時見ていたアニメ「世界名作劇場」の映像を脳裏によぎらせながら、日本人にありがちな「欧米崇拝思想」に酔っていたんだと思う。

暁の死線は、そのシリーズのひとつだった。作者名はカタカナ表記にすると、苗字順に並べても、名前順に並べても、いずれも五十音順では頭のほうにくる、ウィリアム・アイリッシュという名前だった。子供心に、どこかひんやりとした、冷たそうな響きを帯びて感じられたのを今でも覚えている。

小説の本編が始まる前に、あらすじ簡単に説明する紹介の挿絵を読んで、とてもとても興味をそそられた。そして読み始めた。しかしなんと、話の終盤、謎解きがいよいよこれから始まるというところになって、なんとそこから後の部分のページがごっそり抜け落ちていた。

欲求不満が最高潮に達していながら、しかし、どうにもならなかった。

この作者のことを思い出したのは、それからだいぶ経過した、専門学校生の時だった。ある雑誌で、名作の推理小説の常連として「幻の女」が挙げられていた。題名の妖艶な響きに魅かれて、私は読み始めた。1998年の夏。魅了された。有名すぎる名作なので多くは語らないが、夜は若く、彼も若かった。しかし──という有名な冒頭から、もう、本当に、圧倒された。海外の推理小説ならたくさん読んだが、文の美しさに溜め息をついたのは初めてだった。読み終えた本の紹介のページに、同じ作者の代表作として挙がっていたのが「暁の死線」だった。題名の脇に簡単な物語説明がある。私はその説明を読み、はじめて、自分が昔ガッカリさせられた、あの小説だと知った。

実は私が小学生の頃に手に取った本の題名は「あかつきの追跡」だったが、インターネットで調べると、「暁の死線」という題名のほうが広く知られているようなので、少々驚いた。

作者のウィリアム・アイリッシュは、本名をコーネル・ジョージ・ハプリィ・ウールリッチといい、1903年12月4日、ニューヨークで生まれた。1925年に名門のコロンビア大学を卒業し、母親とニューヨークでホテル暮らしを続けたというから、満足な教育を受けられなかった、お金で苦労した人、というわけでもなさそうだ。ただ、晩年は孤独だったという。本名に由来してか、「コーネル・ウールリッチ」「ウィリアム・アイリッシュ」「ジョージ・ハプリィ」の3つの名義で小説を発表している。1968年9月25日に、やはりニューヨークの病院で亡くなっている。享年64歳。大都会ニューヨークで生まれ、ニューヨークで生きて、そしてニューヨークで死んだ。

作家としての彼は、大都会を舞台に、孤独な人々の生きる姿を、甘美で哀切のある華麗な文体で描いた人として有名である。日本では江戸川乱歩が、戦後間もない頃に「幻の女」を殆ど盗むようにして読み、大絶賛したという逸話が知られている。私の読んだ本のあとがきでは、戦後、われわれ日本読者を、その特異なムードで放さなかったアメリカ推理小説界の一巨星とまで讚えている。巨星。半端な褒めようではない。

この人の小説を読むたびに思うが、本当に文が綺麗で華やかである。この世の言葉が「格好つけているだけの文章」と「格好良い文章」に分けられるとすれば、間違いなく後者である。生粋のニューヨーカーなのだから、上京した経験などなさそうなのに、上京した者の心理を描く術も、実によく心得ている。

「暁の死線」の登場人物のひとりブリッキーは、都会をひどく憎んでいる。「敵」だとまでいい、故郷に帰ろうとして思い止まった過去を「都会の力に負ける」「都会にひっぱりもどされる」とまで表現し、都会を擬人化までする。地方からやってきてニューヨークに夢を抱いたものの散々だった彼女が都会でどんな風だったか。具体的なことが語られるわけではないのだが、細かい言葉や仕草の描写、その連続を追うことで、読む者は無限に想像をかきたてることができる。古今東西、上京して夢破れる若者の姿は、現実にも作り話の世界にも吐いて捨てる程ある。そんなブリッキーが、都会の中で心を許せるただひとりの友達として頼りにするのが、当時のニューヨークの都会としての象徴の 1 つともいえるパラマウント塔の時計台という観光名所なのは皮肉である。ブリッキーの職業は踊り子。これだって、華やかな何かを夢見た彼女の「現実の果て」の姿。これまた皮肉である。そしてクライマックス、彼女はバスを急ぐ車の中から時計を見て叫ぶ。この街じゅうでたった1人の、あたしのお友達。あたしを裏切ったりするはずがないわ

この話は、物語が進むほど、緊迫した雰囲気になってくる。ブリッキーがどういう状況で上の言葉を発したか、それは読んでみてのお楽しみだが、最期は大都会ニューヨークの壮大な夜明けを描いた描写が勢い良く続き、朝の6時15分を指す文字盤で幕を閉じる。

その結末、私は翻訳モノの探偵小説を読んで初めて感動した。これだけ面白くて、これだけ登場人物のキャラクターが立っているのはとても贅沢で、よくできた、まさに佳作である。訳者の稲葉氏の表現力も素晴らしい。

加えて、こんな話を、ませた小学生が読んでも絶対に理解できないだろうとも思う。

こんな感想はこの作品に対するものとしてはふさわしくないかもしれないが、やはり書いておきたい。

この作品が発表されたのは1944年。舞台は米国、ニューヨークである。今と違いインターネットも携帯電話も存在しない。本編で公衆電話が登場するが、交換嬢を介する仕組みのものだから、たぶん現在とは仕組みも料金も違うと思う。半世紀以上も前の話なので当然、時代の旧さを感じさせる部分は随所にある。が、それでも作品の風格、面白さは損なわれていないと思う。もう一度書くが、1940年代半ばである。当時は世界中で戦争が行われていた。ことに日本は全てが泥沼化していた。国民は「贅沢は敵だ」「鬼畜米英」「お国のために」などを合言葉に、ひたすら質素で貧しい暮らしを余儀なくされ、鉄や石油の原料となるプラスチックは回収され、空襲警報にビクビク怯えながら、モンペ姿でところかまわずイモ畑を作っていたはずである。1945年に、日本は米国に2度に渡って原爆を投下された。つまり当然ながら当時は米国も戦時下だった。しかしながらこの作品には戦争の影が全くない。物資に乏しかった当時の日本でダンスホールに似たものを夜通し開催しようものなら「非国民」「電気のムダ」と陸軍や婦人会などから批難されていただろう。銀座などは当時も都会だっただろうが、それでも大都会を舞台にした犯人探し、故郷行きのバスに乗る場面が成立するような豊かさが存在したとはとても思えない。老いも若きも、個人の夢でなく国のために一億玉砕(戦死)することが誇りだと洗脳されていた時代だ。

当時の米国の作家、アイリッシュはこの時期作家として黄金期を迎えていて、代表作となる長編小説の数々をこの時期に多く発表している。戦争をしながらも、戦争とは縁のない内容の文芸娯楽を発表できる国。日本が戦争に負けるわけである。国力が、あまりにも違いすぎる。

ちなみにアイリッシュの作品は「幻の女」が第一に挙げられることが多いが、私は敢えて別の作品を選んだ。幻の女を読んだ時、結末で女の正体を知って、こんなのありかよ、と思ったからである。それでも、真犯人とその真実には本当にビックリした。

「暁の死線」も、終盤でクィンが真相の一部をブリッキーに打ち明ける場面があり、「時間的にムリがある」と思いたくもなるが、まあそれは大目に見よう。補って余りある素晴らしさがこの作品にはみなぎっている。

登場人物が、強がっていても孤独で傷つきやすいなど、共感を抱きやすい面があるからかもしれない。また、日本人好みなのかもしれないが、私は「暁の死線」をアイリッシュ・コレクション・ベストに挙げる。

広告

***

暁の死線
DEADLINE AT DAWN
公開:2021年01月30日
更新:2022年08月26日