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山口百恵

70年代と寝た女

山口やまぐち百恵ももえは、1970年代にアイドル歌手として活躍した女性である。1959年1月17日生まれ。東京都渋谷区出身で、旦那さんと2人の子供がいる。1980年の結婚に伴い、現在の名前は三浦百恵である。

中学生の時にオーディション番組「スター誕生」でデビューし、人気アイドル歌手として、歌に芝居にバラエティに様々な仕事をこなす。ドラマや映画で共演を重ねた三浦友和と恋に落ち、1980年に結婚。それを機に同年に芸能界を引退している。引退後は専業主婦を続けている。芸能界には復帰していないままだが、日常生活を隠し撮りされたものが週刊誌に掲載されたり、曲の構成を変えたベスト盤のCDやDVDなどが繰り返し発売されたり、一般人でありながら、今もなお注目を浴び続けている。

昭和の日本、ひいては1970年代を代表する大スターである。山口百恵が「絶頂期に引退した」ことと「日本武道館のラストコンサートでは、最後にステージにマイクを置いた」ことは、昭和の芸能界を語るエピソードとして語り継がれて久しい。

私が中学生の頃、1990年代に放送していたフジテレビの音楽番組「MJ」(ミュージックジャーナル)の企画で山口百恵を紹介していた。副題で70年代と寝た女とされていたのを、今も覚えている。高校生の頃、校内図書館の一角に文庫本の棚があり、偶然手に取ったのが、山口百恵の「あおとき」という随筆だった。読んでどんな感想を持ったかは、あいにく殆ど覚えていない。ただ、手に取ったということは、MJで見たことも手伝って、一世を風靡したアイドルという最低限の知識はあったのだろう。


芸能界には、「不景気の時ほど超弩級のスターやアイドルが登場する」「激動の時代に活躍したスターはカリスマ性の塊」という、古今東西変わらない定説がある。

景気が悪ければ、人はどうしても経済面で余裕がなくなり、穏やかでなくなる。そんな心を華やかな芸術性で満たしてくれた記憶は、より鮮烈に生きるのかもしれない。人は過去を振り返る時、苦い当時を席巻した歌や映画などの中に、甘美でありながら力強い光を見出すだろう。

山口百恵の場合は、1970年代という、経済や社会そのものが不安定で、決して好景気ではなかった時代に、レコードの売上枚数こそ現代の歌手とは桁外れに劣るが、「菩薩」と呼ばれるほどの絶大な人気を集めた。呼び名からして、通常のアイドルより更に神格化され支持を得た可能性がある。

伝説から神話へ、そして女房となった女。

デビュー当時、彼女は「青い性」路線といわれる曲を多く歌っていた。

14歳の時は「青い果実」であなたが望むなら 私 何をされてもいいわと歌い、15歳の「ひと夏の経験」ではあなたに女の子の一番大切なものをあげるわと歌った。それぞれの曲が発表された1970年代より、性に関して開放的であるかもしれない現代においても、なお、衝撃的な歌詞の連続。曲の連続。

当時、山口百恵という少女歌手が年齢らしからぬ曲を歌うことで、人々からどのような好奇の目で見られたかは、あの子は、(歌詞の)意味が判っているのかね子供に下品な歌を歌わせて、と揶揄されたと彼女の自伝にも記述がある。デビュー間もない頃からそういった曲を披露した彼女は、世間一般から悟りきった早熟な年齢の割に大人びたという枕詞つきで語られるようになる。しかしやがて絶大な人気を得て、宇崎竜童・阿木耀子夫妻と知り合う仲になり、「プレイバックpart2」など、両夫妻が作詞作曲を手掛ける数々の名曲を披露していくことになる。

前述の番組MJでは、山口百恵は曲のイメージに合わせて微妙に髪型を変えていたので、ファンはそれに追いつけなかった。1980年代前半に流行した聖子ちゃんカットのような現象が起きなかったのは、そのためだといっていた。髪型を変え始めたのはこの頃からだろうか。

彼女の代表曲で「横須賀ストーリー」について語ると、発表当時彼女は17歳である。現代に至るまで様々な歌手にカバーされた名曲であり、彼女のイメージにもぴったりだが、17歳のアイドルが歌う内容では到底ない。ジャケット写真もまた、白馬に乗った王子様を夢見る少女の視線ではなく、人生の機敏や男と女の情愛の何たるかを自分なりの解釈で悟り始めた女の目をしている。

幼い頃から苦労してきた彼女には、この世の暗部を知る人間特有の諦めの表情がある。彼女は21才の若さで「時代と寝た女」「一億人の娼婦」とまでいわれた。一応は誉め言葉だろうが、思春期の女性に向かって言う言葉だろうかという気もする。

彼女の生い立ち、物事に対する考え方については、集英社から刊行されている「蒼い時」がよい参考になる。自らが私生児であるという告白、母と妹と3人で暮らした日々のこと、生活保護を受けた過去、横須賀や仕事や恋愛や性について思うことなどが、見事なまでに卓越した文章で綴られている。

何度目かで読み返した時、私が特に驚いたのは、数字という題で書かれた随想の一節だった。今、私の年齢が二十一才。本の初めには、著者である彼女を撮影した白黒写真があるが、それを見て年齢を思うと、本当に驚きを禁じえなかった。21歳にはとても見えない。文体も写真も、何かの間違いなのではないかと思うくらい、彼女は実年齢よりも遥かに大人びている。

いつの時代もどの国でも、ほとんど誰もが一生に一度は、華やかな世界に憧れる。その中で実際にデビューし、さらに成功を収める人は、全体の一握りどころではなく、ほんの一つまみ程度だろう。彼女はその中でも、「伝説」「神話」「菩薩」と呼ばれるほどの絶対的な地位を得た。そしてそれを自らの手で封印した。

私の知り合いで、彼女と同世代の人が言っていた。「百恵さんは複雑な家庭環境で生まれ育って、父親もあんなだったから、幸せな家庭への願望は人一倍強かったはず。十代の時に寝る時間もないほど働いて、愛する人と結婚して家庭を築く夢も叶えたので、今更芸能界への未練などあるはずもない」「百恵さんは、最低限の生活を知っている人。おそらく一ヶ月10万円で暮らせといわれてもなんとかやりくりするだろうし、1,000万円で暮らせといわれてもおごらずに生活できるだろう。そういう人は、やはり(芯が)強い」。昭和のスター・山口百恵を語る人は芸能界にも一般にも多いが、これは最高の褒め言葉のひとつではないだろうか。

何年前になるだろうか。昔アイドル歌手として一世を風靡し、「私の彼は左利き」という曲で人気を博した麻丘めぐみが復帰した時、話題を呼んだ。そのことに関連して、新聞にテレビ番組制作者の言葉が載っていた。最終目標は、三浦百恵さんに出演してもらうことだと。もしも本当に出演交渉が成功したら、どえらいことだろう。VTRで数十秒だけ軽く流す程度にせよ、生放送の番組でスタジオに来てもらうにせよ、今まで絶対に復帰しなかった百恵さんを一体誰が口説き落としたのか、どれだけの金額が動いたのか、様々な憶測が飛び交うに違いない。視聴率は言うに及ばず、号外が出る可能性もある。なにせ、キルトか何かの作品を百貨店の展覧会に出展したというだけで、ニュースとして騒がれるほどだ。

しかし、それはありえないことだとも思う。

自叙伝の終りで記したように、彼女は倖せになり、今もまた、倖せなのだから。

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山口百恵
Momoe Yamaguchi
公開:2021年01月17日
更新:2022年06月11日